見てきました。見てきましたとも。結果は期待通り。ただし、よくない意味で。ぜひ期待を裏切って、自分が想像していた以上のものを創っていただきたかったけれど、逆にそれ以下でもなく最初の期待度そのままで逆にがっかり。でもやっぱり、がっかりしたのは期待する部分が大きかったからなのでしょうね。
なぜ期待してしまったか。それはあの、野原でアレンが竜に向かって両手を広げているポスターがあまりに印象深かったから。初めてポスターを見た時はまだ4巻を途中までしか読んでいなかったのでてっきり竜はカレシンだと思い込んでいたのですが。自分はまだ5巻を読んでいませんのでアレンとテルーの接点については映画で初めて見ました。本でもあるのかどうかさえ知りません。けれど、最初仲が悪かった二人も、映画の短い時間の中「テルーの唄」を経て自分のことをお互いに話し始める。まさか「テルーの唄」をフルで入れるのはここだとは思いませんでしたけれど、抵抗はありませんでした。アレンやテルー、それぞれのもっと深い部分に触れることは映画ではせず、そのようなことをしなくても、アレンとテルーは成し遂げた。沈黙の中にある強さ、見えないからこその強さがある。それに気付かないことは、魔法を失うことと同じで、逆も成り立つと思う。
正直、これは原作を読んでいないと意味がわからないのではと思う部分が多々ありましたし、ここはきっと監督と自分との解釈が異なってるんだと感じる部分もなかったとは言えません。特に、自分が一番気になっていたのは世界観や枠取り。
ゲドの出身はゴントで今はロークの学院の大賢人。アレンはエンラッドの王子で将来は世界の中心地ハブナーで王となる少年。テナーは遠いカルガド帝国のアチュアンの墓所の巫女であり、今はゴントの港町ル・アルビのオジオンの家で暮らす女性。テルーは「もともと竜と人はひとつだった」存在。
世界の枠を作る際、これほどにも離れた地域にいる登場人物たちを、いったいどのようにして登場させるのかと疑問に思っていたところ、どうやらエンラッドもゴントのあの家も全てホート・タウンに集めてしまったとまでは言わずとも、その周辺に集めた感が否めません。それは自分には世界の狭さを感じさせました。おそらく原作で位置を確認しているためだと思われますが、テナーの家がオジオンの家でさえなくなってワトホートのどこかにあるというのにはかなり面食らいました。
しかし、この「狭さ」は、案外原作から共通するもので、たとえば他の全く別の戦闘を含む映画を見て思うのは、緊迫だとか世界の危機だとかいうもので、単語で挙げるなら壮大、過大、最強、最悪の事態とか。戦っている相手や状況がそのようなものになっていることが多い。けれど、ゲド戦記では戦う相手はただの人間、ちょっと魔法が使える普通の人間で、世間の人々は「変」になっていることにすら気付かずに過ごしていて、まさかゲドやアレンがクモと戦っていたことなど知るはずも無い。アレンたちは平凡で暖かな日々を手に入れる。うまく説明できないのですが、戦っている相手が「普通」である気がするのです。「狭い」と言いましたが、「狭い」というのはこの場合、戦う範囲や周囲に影響を与える範囲がということ。世間一般には何ら関係のないことだけれど、一部の人間が最強などではない敵と戦い強くなる。例えるなら、大学受験と戦う主人公とか、落第と戦う主人公とか。その「狭さ」は一人の人間の物語、一人の人間の成長記録としては非常にいいものだと思います。
今回、映画化においての「狭さ」は、原作を読んだ後の自分には「狭い」と感じずには居られませんが、同時にまとまりの上手さも感じます。
まとまりの中にぜひとも入れて欲しかったものの入らなかったものはアースシーの武勲(いさおし)やアーキペラゴ(多島海)共通の文化で、冒頭の『エアの創造』から抜粋した例の有名な節などは、武勲などがあるのだとわかっていないと驚く。他にも、原作中で『エアの創造』の節についてゲドがアレンに言葉を解く部分があったように思うけれど、映画ではなかった。そういった点でも原作の台詞がどうやら少ないことに気がついたけれど(ストーリー上仕方ないですが)、やはり台詞は意味深なものが多く静かな場面が多いので印象深いです。
----中断。9月10日再開----
取り入れて欲しかった物はまだまだありますが、さて、ここまでの期間で5巻を読み終えてしまったので、8月の頃とはまた違った認識になってしまっているかもしれませんが、この映画のよさと言えばやはり「テルーの唄」です。もうひとつの「時の歌」も同様ですが、この作品の雰囲気を表すのに適し、引き立てるのに活躍しています。歌詞を絶賛、というわけにはいきませんが、手嶌葵さんの声が素晴らしいので、何度も聞きたくなってしまいます。そういえば、サントラを買ったのですが、忙しくて結局あまり聞いていなかったな、聞かないと。でも、一度聞いた限りでは、ああ、この曲だ!と思うものは少なかったですね。特に、もののけ姫のサントラのみ所持している自分には。その点、音楽もやはり物足りなかったのかもしれません。
他には、これは5巻を読み終えて感じたことなのですが。映画はレバンネンとテハヌーが共に行動することになってよかったなと思います。原作、本当に接点が少なかった。むしろ、レバンネンはセセラクと結ばれるわけで、テハヌーも最後は新しい風と行ってしまうので。原作では異文化について語られるためにセセラクが登場しましたが、映画ではアレンがテハヌーを助け、テハヌーがアレンを助けていた部分が「人と竜」という形。その伝え方があまり上手いとは言いがたかったけれど、原作とは異なる、もっと生き生きしたテルーを見ることができ嬉しい。
けれど、全体的に誉めることができない部分が多く悲しいのが本音。アレンのその後、というのを見た側が想像できないのは非常にまずい。映画のアレンはあの後どうしたんだろう。それとも、監督自身がその後のアレンを思い描けない状態にあったのかなと勝手な想像をめぐらせていますが。
ゲド戦記は、もともとの作品が深いだけあって、やはり難しかったのではと思っています。それでも、やると決めたからには、途中で放り出さずにやっていただきたいです。
本当はもっと書くことがあったのですが、すっかり月日が経つと何を書こうとしていたのやら忘れてしまうし、もう既に長々とした文章になっているのでここで終わり。
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